[SIJ: 22338] 新刊案内 キャサリン・マンスフィールドから百年 作品集(一)

Atimoda atimoda.atmo @ gmail.com
2022年 7月 31日 (日) 18:18:09 JST


ターラ、瞑想センター、アティモダです。

プラバンの翻訳でのキャサリン・マンスフィールドの

作品集が出版されました。

ぜひご購読ください。


キャサリン・マンスフィールド著、郷 尚文(Plavan)訳

『作品集(一)カローリの思い出』



 Amazonペーパーバック版 2100円、Kindle版1900円。

ホームページにストアへのリンクがあります。



http://gurdjieff.la.coocan.jp/



 <紹介>



キャサリン・マンスフィールドが残した数々の作品は、ばらばらに読まれ、論じられることが多いが、作者の生涯と主要な関心との関係で、相互の結び付きや各種のテーマの発展を意識しつつ、まとまったものとして受け取るとき、そこから見えてくるものの大きさは格段に違ったものとなりうる。

マンスフィールドがフランスのグルジェフの学院で世を去って百年になるのを前に新しく発行するh包括的な作品集の第一巻にあたる本書には、最初にまとめて読むことがとくに望まれる八編を収めた。このうち『前奏曲』と『入江にて』は、マンスフィールドの作品のなかではいちばん長いもので、これに『おもちゃの家』を加えた三部作が、自身の家族をモデルとしたバーネル家の物語として、ひとつながりの話となっている。よく知られた『園遊会』は、別の家族の物語ということになってはいるが、実質的には、この三部作の続編と位置づけられる。

これらの四編は、執筆時期の関係で別々の短編集に収められたが、それらがのちに『カローリの思い出』(Karori
)という題名でまとめられ、ひとつながりの長めの小説として読まれることをマンスフィールドは望んでいたことが知られている。本書には、これら四編に加え、やはりニュージーランドでの子供時代を題材として扱ったものとして、併せて読むにふさわしい四編を収めた。



〈目次〉

第一部 カローリ四部作

前奏曲Prelude

入江にてAt the Bay

おもちゃの家The Doll's House

園遊会The Garden Party

第二部 関連作品

生まれた日A Birthday

サンとムーンSun and Moon

風が吹く日The Wind Blows

船出The Voyage

解説



*大判型ペーパーバック(A4)120ページ(標準的な単行本で約二倍のページ数に相当)本文フォント10.5pt 縦書き二段組。電子版(Kindle
)もあり。



これまでのところ、これらはまとめて扱われたことがめったになく、そのため、『前奏曲』を飛ばして『入江にて』を読む、あるいは『おもちゃの家』や『園遊会』だけを取り出して論じる、といったことがよくされてきたが、それは連続した作品としての全体性をかなり損なうものであり、単独の作品から導き出した結論や感想は、物語の全体との関係では必ずしも成り立たない。たとえば、『前奏曲』は、女性解放の観点から強い支持を集め、いわゆる男性支配に対する女性からの異議申立てとして解釈されることが多かったが、『入江にて』を経て、残りの二編、さらには関連する作品までを意識すると、そのような単純すぎる見方は成り立たないことがわかる。女もまたトップダウンの支配の流れに迎合し、往々にしてそれを支持しているありさまが描かれているからである。

これらの作品は、結婚・男女関係・家族・出産といったことのなかにあらわれるトップダウンの支配の論理、それに一応は不平を言ったり反発したりして見せる人たちが往々にして隠した頭もしくは心の弱さ、それにも関わらず人のなかに残る解放もしくは救済への願い、それがかなうための条件といったことを描く。その解放もしくは救済との関係で、キリスト教をめぐる言及がある。この最後の点をめぐりマンスフィールドの作品の伝えるものは、なかば公に認められた教会筋の解釈に従わない挑戦的なもので、おそらくその扱いの難しさが、作者の死後のこれらの作品の扱いや評価にあいまいさが混ざりこむ原因となった。

マンスフィールドがこれらの作品を書いたのは、その生涯の最後の七年間においてである。その契機となったのは、子供のころから深い絆で結ばれた弟のレズリーの死だった。一九一五年十月のことである。第一次世界大戦中に入隊してヨーロッパに渡ったレズリーは、訓練を指導中、手榴弾の暴発によって、三十歳そこそこの年齢で死んだ。

『前奏曲』に始まる自身の生い立ちを扱った一連の作品の執筆は、夢にあらわれたレズリーからの求めに応じたものだったことをうかがわせる記述が残されている。そのようにして始まった、自身の過去と魂の軌跡を追った一連の作品の執筆は、レズリーだけでなく、やがて結核のために先遠からぬ身であることがわかった自身の魂の救済を志向するものとなった。

外的に見るなら、人はみな死ぬ、少なくともそれに関して人はみな同じである、平等であるように見え、そう思うことで、人は自分を安心させたりもする。しかし、内的に見るなら、人のありかたは互いの間で大きく異なり、多くの人が大人になる前に内的な生命を失うのに対し、わずかながらそうではない人たち、内的な生命を育て、それをもって生きる人たちもいる。その意味では、人はだれしもが死ぬわけではない。

このような見方は、心乱すものでありうる。だが、〈生〉の意味をめぐる正真の洞察はここから生じる。みずからの肉体の滅びが遠からぬことを知った身には、これを見つめるのは、心乱すことではない。父が、母が、姉たちが、トップダウンの支配の論理にみずからを適応させる過程で次々に内的な生命を失っていくなか、自分はいかにして内的な生命を保ってきたか。その来し方をふりかえることは、自身の不死を知ることであり、本書に収めた八編は、まさにその核心に触れることを扱っている。



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Atimoda @ Osho Tara M. C.

http://www.osho-tara.site/

Plavan @ グルジェフ&グルジェフ・ムーヴメンツ

http://gurdjieff.la.coocan.jp/

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