[SIJ: 21752] 神無月相聞茶堂 ご案内

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2021年 10月 25日 (月) 20:03:59 JST


皆様へ。

 

先週の20日と21日、有無の一坐は三重県津市の浄土真宗万松山専琳寺へ名残りの出稽古に参りました。

ご本堂で開催された「ご縁の間の会」では、御住職や地元の方々と親しくお目にかかりました。

 

専琳寺の本堂脇には樹齢400年の銀杏の樹が聳えています。

大阪にはこんな大木はありませんし、僕の人生でもこのような迫力のある銀杏の大木は見たことがありません。

津市は空襲で何度も焼かれましたが、この銀杏は400年の昔から生き残って人々の有り様をじっと見届けてきたのでした。

 

御住職の中井健二師は、

「私も皆さんとともに見守られています。見届けられています。としか言うことがありません」

と優しいお声とたたずまいで語ってくださいました。

 

 

参加された地元の坐衆の方々は皆、安心したように柔らかい空気の流れる本堂の畳の上にくつろぎ、

しかし話題は日ごろの人間関係から自力修行と他力念仏、天皇制の可否など大きな問題を真摯に語り合いました。

 

間の会主宰の西脇秀典さんは、我ら一坐が歩く円坐道、縁坐舞台道を魂として確かにご一緒させていただいている盟友です。

彼はかつてこの専琳寺で寺男として先代御住職につかえて奉仕をされていました。

寺男とは、出家と浮世の中間の存在として橋渡しの役割を果たす職分です。

まさしく我々有無の一坐の考える「縁坐舞台」の位置に生きてきた人物です。

 

御住職から市内の国道脇にこの専琳寺の銀杏の兄弟とされる大銀杏があるとお聞きし、

西脇さんのご自宅の道場に泊めていただいた翌日、皆で向かいました。

目指す大銀杏は特に荘厳されもせず、忘れられたように道路わきに聳えていました。

樹齢400年であっても専琳寺の銀杏より輪郭が薄く、弱っているように見えました。

銀杏のそばには西脇さんの御親戚の家があり、我々は彼からかつての町の様子や銀杏の面影をお聞きしながら、

この銀杏が今は誰にも顧みられていないようであることを寂しく思ったのでした。

 

しかし、このたび我々有無の一坐は確かに津市を400年間見守ってきた大銀杏の兄弟に出遇ったのです。

線香を供えると紫煙が風に漂います。

微風のように通り過ぎ、花の香りのように心に残る面影を舞わせて頂きました。

 

道場に泊めていただいた折、以前皆様にもお伝えしたことのある西脇さんの御尊父が、

お母様に支えられながら道場にお姿を見せてくださいました。

御歳を召しておられ、立ち居振る舞いにご不自由があるにもかかわらず、道場に数歩入って我ら一坐に一礼をくださると、

なんとそのまま合気道の演武を三度にわたって見せてくださいました。

驚くべきことに片足を上げて手で打つ型を二度も見事に決められ、思わず正座しかたずをのんで見守る我々だけでなく、

ご家族にとっても日ごろ見ることのない御父上の姿であったとのことでした。

 

やはりこうして身を運んで来なければならぬ。

こうして生身の身体丸ごとでお訪ねすると、このような二度とない振る舞いを頂けるのであると。

御父上にお目にかかるたびに、我ら有無の一坐、魂の根底に届く教えを頂き続けています。

 

御父上のまなざしはどこまでも深く柔らかく、人智を超えたものを映しておられるように僕には思えます。

僕は御父上のお側に坐らせていただくことが、あたかもあの大銀杏に見守られているかのごとくであると思うのです。

折しもその夜の津の空は快晴、十五夜のまん丸の満月が道場の窓から我々に慈光を届けてくれていたのでした。

 

縁坐舞台の上でヒトガタとしてお客様に対峙するとき、あるいは円坐舞台守人として坐衆方と対峙するとき、

自らの所作の深みに御父上の眼差しを頂いて舞台に臨むことができることを一坐の光栄とし、

一代の誇りとさせていただいています。

 

謹んで、有無の一坐主宰「神無月相聞茶堂」をご案内いたします。

 

 

神無月相聞茶堂 有無の一坐  橋本久仁彦(Sw.Deva Premi)

 

★★★

 

みなさま

朝晩すっかり涼しくなりました。

 

秋雨が降る日も、

秋晴れの日も、

柿の実があかく色づく様に、

夕焼け空に風が吹き抜けていきます。

 

今朝、高い脚立に登って、

枝を一本一本手でふれて、

話をする様に、

枝に剪定鋏を入れていました。

 

葉と葉の間の光や風が変化する瞬間、

そんな時はかならず、

どこかでいつも誰かが、

みつめている気がします。

 

それは、

決して怖いものではなく、

妄想とかでもありません。

 

ひとりの時も、

必ずいつもすぐそばにいる、

そんな存在感の様なものです。

もし、その存在感の様なものに、

名前があるなら、

ご縁というのがしっくりきます。

 

ご縁というのは、

本当に不思議なもので、

それは偶然とかいうものではありません。

 

円坐道を歩き続けているのは、

なぜなのだろうと、

ふと、考える事がありました。

 

それは自分の力や、

技術を磨くためとかではなく、

ご縁あっての仕事という気がして、

各地を歩き続けている気がします。

 

人と人の間を見ず、

事実を過去として無かったことにしたり、

私利や私欲を満たすために我を通すなら、

それは、道どころか、

お門違いな気がして、ただむなしいです。

 

たとえ、

人生が苦しかったとしても、

人と人が円になり相坐ると、

相聞歌のように、

響いてくるものがあります。

 

目の前の人に対する、

その人の姿勢や様だけではなく、

人の中や環境の中であらはれる、

その人の背景や周囲の音や声が、

誰かの足跡や痕跡が・・

 

時空を越え、

こちらに向かって、

あらはれてきたり

聞こえてくるのが、

道を歩く、

というものなのかもしれない、

と、そんな気がしました。

 

先日は、

新潟長岡を歩きました。

いい人と歩けば祭りです。

いい人達と巡り会いました。

 

ふと、

瞽女さんにゆかりのある、

お寺さんをお訪ねした際に、

そのお寺のご住職さんが、

お出かけになられる直前にも関わらず、

本堂にまでご案内してくださいました。

 

ご住職さんはその後すぐに、

お出かけになられましたが、

本堂でじっと木彫りの仏像をみつめていると、

ひとつひとつ木彫りされている手や、

背中やお顔がふと視えてくるような、

そんな不思議な気がして参りました。

 

仏像の横には、直筆で、

お持ち帰り

ご希望の方

お声がけ下さい。

と、御名前と共に書かかれたかみがあり、

実際いただいて持ち帰りませんでしたが、

 

なぜか、いま、

心の中には、この仏像とかみがあります。

 

心の中にずっとある、

この方の木彫りの仏像と、

手書きのかみの中の言葉。

それは、ひょっとしたら、

ご縁というものなのかもしれない、

と、そんな、気がしています。

 

今月の神無月 相聞茶堂は、

10月27日水曜日に開催いたします。

 

ご縁ある皆様の、

お越しを心よりお待ちしております。

 

松岡弘子

 

 

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◇ 開催日時:10月27日(水) 10〜17時

◇ 茶堂場所: 石切相聞亭

◇ 円坐守人:橋本久仁彦 松岡弘子 橋本悠

◇ 内容:未二観・影舞・円坐・円坐舞台

◇ 会費:一万円

◇ 申込:soumon.enza @ gmail.com 松岡

◇ ご挨拶:

相聞茶堂は、令和二年七月から三カ月間『浦堂 きらら』で、九月からは『高槻町 うらら』の古民家へ移り開催して参りました。

令和三年一月より『石切 相聞亭』にて開催いたしております。秋のお彼岸は、関ケ原古戦場円坐の足跡を辿る予定です。

「相聞」とは、カウンセリングやコーチング、セラピーではありません。知識による人から人への受け渡し教育でもありません。

誰もが乞い乞われる万葉の相聞歌のような、魂の呼応です。

「茶堂」とは、日本の喫茶店のルーツです。四国の各地の村境にある小屋のことで、

生活をする中で世代を問わず語り合ったり旅人をお接待する憩いの場であったり、四国の各所には数多く残っています。

 

その「茶堂」を場所としてそこから呼び覚まされる生活の言葉、智慧による願われた言葉が

我々に生まれる瞬間、生活に深く根ざした、思議することあるべからず世界へと道がひらける、

そんな、ちいさなわたしを通じて、世界の歴史全体を包み込むような空間がこの世にひとつ、あればいいなあとおもいます。

 

歴史を越える心にふれるには、人に会うことでしか始まらないと思います。

人の語る言葉をそのまま聞くということが、たとえ発語がなくとも、聞こえてくる言葉をそのまま聞くということが

ほとんど無くなりつつある現代だからこそ語りの言葉には他者への敬意と土地への誇りも、同時に、不可欠だと痛感しています。

 

わたしたちはこれまで長い歴史の中でいのちの事を生命とは呼ばず、寿命と呼んで参りました。

寿というものをいただいて、命そのまま生きているわけですが、現代は個人の生命を私有化してしまい、大変苦しんでいます。

 

寿命とは一体なんだろうかと思うのです。

生活に根ざした、向こうからの呼び声のような、魂の言葉のような、寿命とはそんな願いのような気がしてなりません。

 

そこで「相聞茶堂」という見えない小屋の棟を上げ、その土地の舞台となり、

皆様と共に、この現代でいうお接待の形を試みてみたいと思います。

 

同時に、この願いというものは、いつの世にも願われてきた「呼び声」でもある、という気がしています。

 

では、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

松岡弘子

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