[SIJ: 21220] 生駒石切円坐舞台守人十六番稽古 ご案内

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2021年 2月 7日 (日) 01:17:20 JST


皆様へ。



昨日は生駒石切での「一滴大海円坐」が開催されました。

東京や山梨など遠方からも坐衆方をお迎えして見所豊富な「円坐舞台」であったそう
です。

僕は参加しませんでしたが、有無の一坐・円坐家族橋本一家も円坐に坐りましたの
で、

一滴大海円坐でのそれぞれの「舞台の様」を振り返って新たな景色を見つめました。



円坐の経験は、意図的な構成や目的がない即興の舞台に例えることができます。

円坐の「本番」が終わってからも参加した「坐衆」の心の奥では、

まるで渦巻の様に位相を深めながら、くり返し内的な円坐経験が続きます。



それは見逃せないライブを現場で見たり、思いがけない出来事に遭遇した体験に似て
います。

自分がみずから前進し、落ち込み、浮上し、彷徨い、発見した経験や景色は思わず口
をついて言葉になって飛び出します。

それは私にしか歌えない歌であり、あなたにしか踊れないダンスです。

息子の淹れた珈琲を御代わりしながら身振り手振りで語り合い、気が付いたら午前三
時。

我が家は煌々と明かりが漏れる『深夜喫茶リエ』となっていたのでした。



あくる朝、540頁もある分厚い本を開いたら目の前に次の文章がありました。



「真実においては分離して存在している“もの”はひとつもないので、原因と結果の
概念は必要ありません。

たとえて言うならば、一滴のしずくが大海に落ちればそれとひとつになるのと同じこ
とです」。





昨年12月の妙高寒立円坐やこの一滴大海円坐では、円坐内での人間関係(仕合)
が、

はっきりとしたらせん状の渦巻として、生き生きとしたエネルギーの痕跡を残しまし
た。

そのような円坐の磁場の成立を特に「円坐舞台」と呼びたいと思います。



円坐舞台に坐る者(坐衆)は、この現代社会の具体的現実を日々生み出している我々
の

「人間関係の真実」と対峙し、仕合うことになります。

人間同士の基本的な関係性や関わり方は、人類の二千年の歴史が経過しても特に変化
していません。



歴史の始まりからずっと、人類が繰り返しドラマ化して体験し続けている「自分と他
者」との関係。

その具体的な有り様や生き様を、舞台上の群像劇のように円坐舞台で体験することは
最高に面白く、

語るほどに新鮮なエネルギーに満たされて眠気や怠惰な気分が吹き飛び、時間が経つ
のを忘れます。

僕が残りの長くはない人生で、「人として」仲間と味わいたいのはこういう時間で
す。



円坐舞台では、人間が他者と真摯に関係して初めて発現し形になる「我欲」や「喜怒
哀楽」「愛憎」「幻術」を生のまま味わいます。

円坐守人でもある息子の橋本悠はかつて東京で役者をしていましたので、円坐舞台と
シェークスピア劇を重ねて語り合うことがあります。

「人生は回り舞台、人間は舞台役者」という含蓄ある言葉が、円坐舞台にそのまま当
てはまるように思うのです。



大河ドラマや映画が描くような人間関係の本質を、我々も舞台上の人物となって内面
的に味わうことになる円坐。

それは「未二観の15分間の中に全人生が入る」のと同じ構造です。

そして自分の「全人生が入る」ときにのみ、そのすべてを含んで背景に拡がり輝く
「人智を超えた美しさ」が感得されます。



僕は、現代という時代の悲劇はもはや肉体的な生命が失われることではないように思
います。



我々の時代に潜伏し致命的なほど蔓延している肉眼では見えにくい精神の症状があ
る。

それは、本当は動的で劇的で、何よりも一番生き生きとしているはずの「自分自身と
いう生命」に対して

いつの間にか離れて「観察」する態度に慣れ、その傾向に深くとらわれてしまったと
いうこと。

自分と他者との関係を、すなわち人生を「観察者」として距離を置いて見ることしか
できなくなってしまったということ。

自分の人生という舞台を「観客」の立場から客観的に見ている「理性を大切にする」
我々。





我々は言葉を超えた生命場である「ナマの時間、活きた空間」から降りてしまい、

生き生きと舞台上で喜怒哀楽を生きる「人間役者」ではなくなりました。



全身で生きればあっという間に過ぎ去る自分自身という一回きりの人生に対して距離
を取り、

「私」は暗い観客席の居心地の良い椅子で身体を後ろに引いて、



「この映画(自分)はいいな、ワクワクするな」とつぶやいている。



他者と対峙したり、社会と摩擦を起こしたりする事態は回避します。

椅子から立ち上がって「自分」という舞台に上がってしまうことになるから。



このような目には見えない人の姿勢、魂の低い温度は日常の熱量の中では見えませ
ん。

しかし、事件や事故が起こった空間や、真剣に仕合う試合や舞台のような時空が伸び
縮みする場所では、

まるでサーモグラフィで冷たい部分が青く表示されるようにはっきり浮き上がりま
す。



円坐はこの熱量が生み出される精神的な「舞台」であると思います。

円坐守人とは、人と人との間に渦を巻いて生じる熱と圧力のためふたりの時空が伸び
縮みするような

精神的な舞台という縁(えにし)を結び、守り続ける結界師です。





昨日、縁あって池田理代子さんの名作『オルフェウスの窓』を読了しました。

ある現代音楽家が感想文を寄せておられました。

円坐道を辿る方ではなくても、やはり高い魂の温度で自分自身と他者に対峙している
ように感じました。

円坐守人社中並びに未二観辿者の方々に手向けます。





「僕は再びオルフェウスの窓の下に立つ。

愛し合い、憎み合い、感情に溺れ、

情緒に流される弱い人間のひとりでしかないことを知ること。

そして心を揺さぶる官能の予期せぬ高まりに翻弄されること。

無機的なこの世紀を経て、無調の時代の現代音楽を経由して、再び僕たちは、

この作品の主調をなす愛ゆえに過ちを犯してゆく哀しくも美しい世界に入って往ける
のである」。







  生駒石切・円坐舞台守人十六番稽古 坐長 橋本久仁彦(Sw.Deva Premi)







★令和三年度の生駒石切円坐守人16番稽古では、円坐舞台結界師としての円坐守人
の稽古を行います。



★★日程



一番稽古 4月3日土曜日

二番稽古 4月4日日曜日

三番稽古 5月15日土曜日

四番稽古 5月16日日曜日

五番稽古 6月12日土曜日

六番稽古 6月13日日曜日

七番稽古 7月3日土曜日

八番稽古 7月4日日曜日

九番稽古 7月31日土曜日

十番稽古 8月1日日曜日

十一番稽古9月4日土曜日

十二番稽古9月5日日曜日

十三番稽古10月2日土曜日

十四番稽古10月3日日曜日

十五番稽古11月6日土曜日

十六番稽古11月7日日曜日 





会場 東大阪市生駒石切  橋本亭



申し込み・お問合せ  橋本久仁彦( <mailto:enzabutai @ bca.bai.ne.jp>
enzabutai @ bca.bai.ne.jp)までご一報ください。





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