[SIJ: 21368] きくみるはなす縁坐村塾開校のご案内

premi ptproduce @ bca.bai.ne.jp
2021年 4月 9日 (金) 14:04:07 JST


皆様へ。

 

来たる4月21日水曜日より、きくみるはなす縁坐村塾を開校いたします。

 

我々有無の一坐は、きくみるはなす縁坐舞台という道を歩いています。

その具体的な風景は、円坐、影舞、未二観、縁坐舞台です。

「きくみるはなす縁坐村塾」は橋本久仁彦、松岡弘子、橋本仁美(末尾にご挨拶文掲載)

による鼎談から始まります。

橋本悠による村塾カフェ 『昭和純喫茶リエ』 も同時にオープンします。

 

円坐や影舞、未二観はその構造に人為的な目的を組み込まないので

「手法」や「メソッド」と呼ぶことができません。

あらかじめ「気づき」や「意識化」、「エネルギー」や「成長」などの時間的志向価値を持たないので

「セラピー」や「ワーク」とは言えず、意識変容を目指さないので「瞑想」でもありません。

人類の進化や自己実現といった目的概念も坐衆の一つの思考に戻り分相応となります。

 

円坐とは端的に他の誰でもないこの人々と一緒に坐るというそれだけのことであり、

影舞とはこの世でたった一つのあなたとわたしの舞いであるという平凡な真実であり、

未二観とはどんな時間にも属さない永遠の15分間をあなたと生きるという当たり前であり、

きくみるはなす縁坐舞台とはただ一度きりのこの生涯という全宇宙のことです。

 

「円坐」「影舞」「未二観」の名乗りのもとにアラハレる「アラハレ」は、

対象化することができず、ゆえに概念化できず、

ゆえに効率化できず、ゆえにシステム化できず、

ゆえにやり方や考え方として事前に準備することができません。

 

それは我々の「自我」が永遠にふれることのできないものです。

にもかかわらず永遠の時間を一瞬で越え、ただちに誰でもそうであるものです。

何者でもなく賢くもない、平凡で無一物の五歳児や八十歳のお年寄りが、

円に坐り合い、指先を触れ合い、ことばを辿り合って、

まったく時間をかけずに「時間」を越えて往きます。

越えようなどと夢にも思わないまま。

髪の毛ほどの気づきもないうちに。

 

彼らのその声、その輪郭、その様、その風景が「きくみるはなす縁坐舞台」です。

 

 

大音響

あんまり音が大きいので

我々の耳には聞こえない

だけど ほら またひとつ

花びらが 落ちた

 

 

*この度の縁坐村塾では八分間未二観とレビューも行います。

*末尾の御挨拶文にありますように、橋本仁美がより自由になれる音楽観を

見出したいと申しており、ことばと音の「間」「響き」に関心を向けていますので、

縁坐村塾に続く玄関口でもあるこの場所に以下の文言を掲げます。

 

 

五大皆有響  十界具言語   

  六塵悉文字  法身是実相    『声字実相義』 空海

 

 

五大(地・水・火・風・空)みな響きあり

  十界(宇宙すべて)言語を具す

  六塵(色・声・香・味・蝕・法)ことごとく文字

  法身はこれ実相

⇒ことばがアラハレて来る(如来)ところ(法身)が実際の相手。

 

 

きくみるはなす縁坐村塾 守人の一  橋本久仁彦(Sw.Deva Premi)

 

 

 

日程 ①4月21日(水)             

    ②5月12日(水)

    ③5月26日(水)

    ④6月9日(水)

    ⑤6月23日(水)

    ⑥7月14日(水)

    ⑦7月28日(水)

    ⑧8月4日(水)

 

時間 18時30分~22時

会場 大阪市西区千代崎2-20-8 有無の一坐・山月記(鬼)稽古場

 

塾費 一回5千円 (通し参加全8回3万5千円)

 

(*八分未二観レビューご希望の方は別途お申込みください。)

 

★

 

皆様、このたび、あらたに縁坐村塾が開校されるとのお話をいただきまして、

縁坐村塾の鼎守人の一人としてご挨拶を申し上げます。

 

大阪生まれ高槻在住の松岡弘子と申します。

どうぞよろしくお願いいたします m(_ _)m

 

日々生活するなかで、たとえ不自由な暮らしであっても、僅かな時間、

共に、学びあうことができれば、それはとてもしあわせです。

 

橋本久仁彦さん・橋本仁美さんと共に鼎守人をつとめますこのたびの縁坐村塾は、

大阪環状線のガード下で開催していた懐かしの鶴橋相聞円坐以来の久しぶりの三人トリオです。

 

仁美さんが大阪に帰られて十月(とつき)。

仁美さんの倍音が倍音を生み響いています。

 

一方通行の知識の伝達ではなく、この縁坐村塾では、学び合い、薫陶を受けあい、

他者と共に生きて生かされながら、唯一無二の人生に参入し、

やがて皆の生きる世に還っていくよすがとなれば、さいわいです。

 

先日の弥生相聞茶堂で石切神社上の社に於きまして八分未二観をさせていただきました。

 

円坐も未二観も初めての竹本さんとご一緒に八分づつ相互舞台空間を結界しあいました。

 

二日経ちましたが、その時わたしが語った内容や、周囲の音などを文字に起こしました。

 

たった八分間でしたが、全てがある、そんな有り難い時空間でした。

 

縁坐村塾では八分未二観を三人でトリオレビューもするそうです。わくわく楽しみです!

 

それでは、縁坐村塾にて、共に、学びあうご縁を、心より、お待ち申し上げております。

 

くぅ

松岡弘子

 

 

 

「未二観」〜 弥生 相聞茶堂 〜

 

日時  令和三年三月十八日 お昼

場所  石切神社上の社 瀧のそば

 

話者    松岡弘子

守人  ()内 竹本敬子さん

音響  【】内に明記

 

 

(それではこれからの時間は、松岡弘子さんの時間です。

よろしくお願いします。

わたしは、が、この場をご一緒させていただきます、竹本敬子です。

わたしが、えー言葉を辿らせていただきます。お願いしまーす。)

 

 

はい。お願いいたします。

 

【カラスや鳥の鳴き声が聞こえ絶え間なく瀧の迸る水飛沫の音が響く】

 

ふと見上げると、桜が・・結構咲いていて。もう満開だなぁと、思っていて、

この一本が・・・八重桜の。

 

さっき、あのう、石切で影舞した時、あのう、四万十のね、

なんか、あの、桜の、枝を、活けてくださってたのを、ちょっと思い出したりしていて。

 

コロナでね、お花見が、できない、であろう、都会の、仁美ちゃんに、

四万十のおっちゃんが、お花見できるようにて、送ってくれたっていう、枝。

 

なんか、その、枝先についている蕾の向こうから、

なんか、四万十のおっちゃんの、まなざしみたいなの、感じるし。

 

なんか、このう・・んー・・・なんでかなぁ。

 

特に桜は感じるんだけど。

 

亡くなった人とか、まぁ、目には見えなく・・なったけれども、いる人達が年一回だけ、

ちょっと、こう、気配を、まなざしの中、気配を感じさせてくれる、ひと時やなぁ、

ていうのを、やっぱり桜の時には、やっぱ感じる、なぁと思っていて。

 

(うーん)

 

なんか、こうやって、桜観てたら、向こうから、ね、目が合ってんのかなぁと思うと、

ちょっと、こう、楽しい感じがするし・・・

 

(うーん)

 

うん・・・・なんか、この・・何気に目に留まるものが、花でなかったとしても、

なんか、うーん・・ただの物質では無い気がしていて。

 

(うーん)

 

うーん、さっきの、伊東さんの焼かはった、あのお地蔵さん。

 

(お地蔵さん、お地蔵さん)

 

うん・・そう。伊東さんが、ああやっていらっしゃって。

影舞の時に、舞台に置くお地蔵さんと一緒に、伊東さんがいる、

っていうのは、今回、貴重で。

 

(うううーん)

 

いままで舞台で、何度も、あのお地蔵さんを、あんな風に、置いたこともある、

けれども・・ねえ、それを作り手の伊東さんが、こうやって、一緒にいるって

・・・不思議なめぐり合わせな・・気がするなぁと。

 

【ピンポンパンポン♪】

 

ひょっとしたら、なんか、その時には、伊東さんは「まぁ、はしもとさんが、気に入ったんなら、

好きなだけ持って行ってください」って言って、工房で、こう、すすめてらした、時は、

ねえ、こんな舞台が、石切で、あるなんて事も、意識下にはのぼらなかった、だろうけれど。

 

なんか・・やっぱり【犬の吠える声】魂の奥深いところでは、

何処かで識っていたんじゃないのかなあ・・と、いう気が、していて。

 

となると、なんか・・うーん、もうあれは、昔のことだからって言って、無い、わけではなく逆に、

あの時すでにもう、この、石切のこの一日が有るっていうのを、が、

その時点で実はもう、起きていて・・変な話やけど、未来なのにね。

 

(うん)

 

うん。なんか、こう・・上手く言えないんですけど、なんかこう・・

 

【空高く飛行機の音が鳴り響く】

 

学校とかで、学ぶ時間ていうのは、歴史とかやったら、昔のことなんで、

今はもうそんな時代じゃない、けれど、こんな時代が、かつて、あったんだよ、

って事で、過去の事として、過ぎ去った事として、全て切り離して、学ぶし。

 

将来のこと、を、見越して、科学なんかのね、技術発展なんか習うけど、

なんか、逆なんちゃうかなあと思ったり、思っていて。

 

なんか、切り離した今とか、やっぱ無い様な気がしていて。

 

この先起こるであろうって事も、全て、いま実は、此処にあって。

 

・・でも、いま、此処に、ある、って言った瞬間、ちょっとそれは、フェイクで、嘘で。

 

なんか、今此処もなくて、あるのは、この先、起こるであろうていう事と、

かつて、あった事が、全部、あって。

 

【烏の声】

 

それは、亡くなりつつある人達とか、生まれてきたばかりの人とか、

何かのね拍子で、不自由にできている人達は、どこかそれを、識っていて。

 

なんか、わたし達は、多分そのフェイクの・・虚構を、演じあってるだけで。

 

うん、で、それをまぁ、大きな声で、公に言い出だすとちょっと

「あーあの人は狂ったな、とうとう」とか言われるけど、

まあ、そうでもないような、気がしていて。

 

こう自分の独りの中の思考の中で考えていったら、

独り善がりになっていくけど。

 

やっぱり目の前には、こうやって桜も咲いているし、ねえ、山から流れてきた、

山の中をつたって出てきた、ねえ、水がここでパシャパシャ、なんか迸るのとか

・・何よりも・・その事を語っている、気がしていて。

 

(うん)

 

となると、さっき喋っていたわたしは、たぶん桜の花だったり、

瀧の音なのかなあ、って・・

 

【カァカァカァ・・カァ】

 

うーん。で、隣でお話を聞いてくださってる竹本さんは実は、竹だったりして。

 

(うーん、竹)

 

そう、中が中空の、竹なのかもしれなくて。わたし達いると思ってるけど、

ふたり、実はいなくて。

 

(うん)

 

あるのは、桜の花。竹。この瀧の音、なんか鳥の音、遠くで聞こえる機械の音とかね、

上空で飛ぶ飛行機とか、が、わたし達なのかもしれないなあというのを、ちょっと、思うなぁ、と。

 

いま、電車の音、聞こえたけど、彼処に実は、いまも竹本さんと竹本さんの

義理のお母さんが乗って、石切詣でに来てる可能性もあるし。

 

(あー・・・うん。)

 

うん。全てがあるのかもしれない。

 

【烏の声、瀧の音、鳥の鳴き声が、ずっと鳴り響いている】

 

(はい。・・それでは、ここで、ええと、松岡さんの時間を、

ええと・・と・・し、閉めさせていただき・・?)

 

あ、あー、終わりであるという事を言ってくださったら。

 

(あ、はい。では、終わりです。)

 

どうもありがとうございました。

 

(ありがとうございました)

 

ありがとうございます。 

 

~~~~~~~~~~~

 

「橋本仁美よりご案内」

 

円坐や未二観・影舞をやっていると、

話し声や雑音、環境音が音楽に聞こえてくるようになり、

音楽と日常の音の境目がわからなくなりました。

 

音楽の広がりを感じてとても面白い反面、

自分でその経験を生かし音楽をテーマに場をつくろうとすると

すでに身についている音楽知識や経験に引っ張られて、

なにをやっても西洋的な音楽に合わそうとする自分から

離れることができず、苦しい思いがありました。

 

そんなことを父と話していたとき、井筒俊彦さんという人のことを

父から教わりその方の講演集「東洋哲学の構造」(慶應義塾大学出版会)

を読むと、ある一節が目に留まりました。

 

『近頃の画家は筆と墨だけに心を傾けるが、古人は筆と墨の不在に心を傾けたものだ。』

 

一七世紀の清代中国の画家、惲南田(うんなんでん)の言葉だそうです。

音楽の話ではありませんがジャンルが違っても共通するものを感じ、

読んだときに「えっ?!」と意味はわからないながらも、

その言葉にすごくしっくりきて、ここで語られていることについて

もっと知りたくなりました。

 

またその後の文章には、

『墨をあたかも自分の命のように惜しんだ』

という言葉もあります。

 

音楽でいえば、おそらく音色をあたかも自分の命のように惜しむ、

ということになるのかと思います。

これは一体どういうことなのでしょうか。

 

これまで自分がやってきた、いかにリズムに合わせるか、

良い音・きれいな音を出すか、ということに対して

正反対のことを言われているような気がしつつ、一方では

やはりよくわからないけれどなにかが腑に落ちるような感じがします。

この言葉を語った人は、そしてこの言葉に響いた自分は

何を見ているのでしょうか。

 

最後に同じ本からもうひとつ引用します。

『彼らのような大家に代表される水墨画は、伝統的に「神秘的な霞んだ絵画」として

知られております。同時代の人々の証言によると、老融(※画家の名前)は空間全体を

ぼやけた霞みで覆うような仕方で描きました。そのために、人はそこに何かがあるかの

ように感じながらも、それが何なのか、だれにも分からなかったそうです。』

 

 

ここを読むと

「そんなはっきりしてない音楽あかんやん!」と頭が叫びながらも、

私のどこかが、「そう!すごくそれ!」と言っていて

自分の中のしぼんでしまっていたところになにかがみなぎってきます。

 

そのあたりのところを

父・橋本久仁彦と松岡弘子さんとじっくり話しながら

より自由になれる音楽観を見出したいと願って

この縁坐村塾の場をひらく運びとなりました。

ご関心あるみなさまとご一緒できることを

心よりお待ちしております。

 

さいごに。

以前にも、父とともに音楽と舞台に関する場をひらこうとしたことが

あったのですが、音楽知識にとらわれてやり切れず

ボツになってしまった案内文があります。その文章のなかに

私自身の音楽に対する探求の視点が載っていますので、

そこもあわせてお伝えできればと思い、掲載します。

 

 

有無の一坐

橋本仁美

 

 

以下より、上にご紹介した案内文の掲載です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「音楽」と「他者の言葉を聞くこと」との接点をめぐって。

パーカッション(打楽器)によるアプローチと

きくみるはなす縁坐舞台のお囃子によるアプローチを用いた探求の場。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

人の言葉を聞くとき、言葉を語っている本人がどこにいるのか、

その精神的な立ち位置を知るためには、言葉を意味ではなく”音”や”響き”として

聞けるようになる意識が必要です。

 

私たちが日常を営んでいるときの意識は、相手が語る言葉そのものを

聞くよりも、その意味や解釈にしばしば惑わされ、相手の姿を見逃してしまう

ことがとても多いと思います。

 

相手の姿を見失わずに聞こうとするとき、私には音楽的な感じ方・聴き方

が役に立ちます。言葉の意味や解釈を追うよりも、声の勢い、大きさ、

音の高低、リズムなどに注目していくと、言葉はしだいに体で受け止め

さわれるような手応えとして感じられるようになってきます。

そのように体で聞く意識になると、意味や解釈により隠れてしまっていた

相手の動きが少しずつ見えるようになってきます。

 

きくみるはなす縁坐舞台は、日常世界を覆っている意味と解釈から

私たちを解放する空間だと思います。その空間には、意味と解釈に覆われて

隠されていた鬼や魑魅魍魎、あの世のもの、と呼びたくなるような

さまざまなものが見えてきます。

 

舞台上の人間がなにをしているのかを意味としてとらえることができず、

そのわからなさに頭は混乱し、疲れ果てますが、意味を追わずに

認識し続ける(辿り続ける)ことは、それほどまでに苦痛なことであり、

しかし一方で、その瞬間にだけ味わえる自由さも存在していて、

その状態が、お互いの思い込みを超えてふれあうことができる在り方でも

あるのだと思います。

 

今回の探求の場は、おもに打楽器的な演奏方法を中心に、私たちが日常的に「音楽」と

呼んでいるもの、すなわちリズムに乗って奏でる西洋的な音楽手法の基本構造を学び、

楽しむところからはじめます。

そして、そのような音楽を聴いているときや、演奏しているときの私たちの意識と、

他者と関わるとき、他者の言葉を傾聴する時の意識とを比較し、両者の重なりについて、

父・橋本久仁彦とともに、探求していきます。

 

 

また、もう1つ探求したいこととして、

私たちは近代的な音楽教育によって「リズム感がない」などの音楽的な評価を

うけることになり、少なからず音楽に対する苦手意識をもつようになったという

側面があるのではないか、ということがあります。

 

きくみるはなす縁坐舞台のお囃子という役割がもっている音楽とも雑音ともとらえがたい

音の志向性を探求し、お囃子がおこなっていることが明らかになってくると、

近代の教育によって生まれた私たちへの音楽的評価についても、

あらためてふりかえることができるようになるのではないかと思います。

 

リズム感とはなにか、リズムにのるとはどういうことなのか、

私たちには本当にリズム感がないのか、日本人のリズム感というものはあるのか、

ということを問い直し、考えてみたいと思います。

 

ご関心のある方のご参加をお待ちしております。

 

                  以上。

 



SIJ メーリングリストの案内